縁起について

むかし、孝徳天皇の御代のこと。
笠形山の深い森の奥から、ひとすじの光が湧き出しました。

光の源は、わずか一寸八分ほどの小さな御仏でした。
しかしその光は、小ささに似合わずどこまでも強く、山を越え、谷を越え、はるか十方の世界まで照らしわたりました。

とりわけ曽根の浦の海は昼のように明るくなり、
海の魚は驚いて散り、漁師たちはまったく漁ができなくなってしまいます。人々は「これはどうしたことか」と頭を抱え、
熊野権現におすがりして、日々祈りを捧げました。

するとある日、山の谷間に不思議な響きが起こりました。
熊野権現が光の源を鎮めるため、笠形山の峰へとおいでになったのです。熊野権現は草や木々を呼び集め、その御光をそっと包み込みました。

やがて幾日も経つうちに、御仏は笠形山へと静かに移られ、
熊野権現も後を追うようにこの山へお移りになりました。
だから今も、この山の境内には熊野権現の社が残っているのです。

笠形山は、そこからさらに不思議な霊気を帯びるようになりました。谷の水は清く澄みわたり、人の煩悩の塵を洗い流すとされ、
青い樹々は枝を交えて、まるで瑠璃色の世界のように輝いて見えました。大医王、すなわち薬師如来も一時この山に留まられたと伝えられ、山の由緒はますます深まっていきます。

とはいえ、当時の人々の信仰はまだ整わず、この地が本当に開かれるまでには、少し時を待つことになりました。

やがて和銅年間のころ、役行者が初めて山に入り、修行の場としました。さらに天平二年、行基菩薩が仏の光に導かれて笠形山を訪れます。行基は御仏の前にひざまずいて礼拝すると、みずから仏像を刻み、その胎内に御本尊を納めました。

そして村人たちに声をかけ、協力を求めて仏殿を建て、
ここに山の信仰が本格的に始まったのです。
今ある御尊像こそ、そのときのものだと伝わっています。

後には、比叡山の慈覚大師が来て再興し、
正徳二年には宥尊上人が現在の堂宇を整えました。
それ以来、代々の名僧たちがこの山に足跡を残し、
多くの人々が願いを胸に訪れ、霊験を得てきました。

語り尽くせぬほどの由来と奇跡を秘めた笠形山。
ここでは、ただその大まかな物語だけを記し、
信心ある人々へと伝えるものといたします。

明治新撰播磨名所図絵

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